私が自閉スペクトラム症と診断されるまでの経緯

こんにちは。ASDハック(ASDhack_)です。
今日は私が自閉スペクトラム症と診断されるまでの経緯についてお話しようと思います。

目次

幼少期から

幼少期、私は他の女の子と違い、恐竜や石に興味を持っていました。
また、一人で何かに集中して遊ぶことが多い子でした。
そして小学校5年生くらいの時には、自分とみんなは何かが違うという、謎の生きづらさを感じていました。
集団行動が苦手で、修学旅行などでは、みんなのテンポについて行けず、苦労しました。
しかしそれは周りからみたらものすごくマイペースだと思われていたようです。
そのせいか、いじめられることもしばしばありました。
運動会の練習の時には、太陽の光がやたらと眩しく感じたのを覚えています。
救急車の音が、かなり遠くからでも聞こえることは当たり前で、「よく聞こえるね〜」と言われていました。
そして当時は、親に発達障害の知識があったわけでもなく、乳幼児検診で引っかかったこともありませんでした。
そのため、自分が発達障害だと知る由もありませんでした。

大人になってから

私はなんとか学生時代を乗り切り、就職することができました。
しかし、隣の人がパソコンを打つ音が極端に大きく聞こえたり、とてもストレスに感じることに気がつきました。
そして、そう感じる人は多くないことを知り、なぜ自分だけが・・・という抑うつ感のようなものが徐々に蓄積していきました。
また、人間関係も上手く構築することができず、職場で肩身の狭い思いをすることが多かったです。
そうしているうちに、年々鬱症状が重くなっていき被害妄想まで出るようになりました。
そしてとうとう心療内科に助けを求めるに至りました。

個人クリニックでのこと

最初の診断名は・・・

私の最初の診断名は「気分変調症」でした。
この診断名は、憂うつな気分が2年以上続くと付けられることがあるようですが、今思えば完全に誤診だと思います。
それから薬が何種類も出ましたが、きちんと飲んだにも関わらず、鬱症状は酷くなっていく一方でした。
喉が異常に乾いたり、太ったりするという副作用だけが目立ちました。
最後には仕事を続けられなくなり、退職せざるを得ず、引っ越しました。

最初の病院

引っ越してから初めて通った精神病院で、自立支援制度を知ることができました。
そこでは、カウンセリングも比較的安い値段で受けることができました。

次の診断名は・・・

そうして出た診断名は鬱病でした。
なるほど納得、とは思ったものの、謎の生きづらさは変わらずあり続けました。
そして服薬をすることになったのですが、これがまた合わずに、医師に訴えたのですが聞き入れてもらえませんでした。
その当時は、1日14時間ほど睡眠に費やしても体が重く、1日1食、お風呂も3日に1回入れるか入れないかという暗黒の生活を送っていました。
それでもその病院にも通い続けること2年ほど経ったある日。
主治医も何かおかしいと思ったのでしょう。
とある検査を受けることになりました。
(それがWAISだとは後ほど知りました。)
また、幼少期のエピソードなども聞かれ、証拠の書類(小学校の連絡帳など)を提出するように言われました。

次の次の診断名は・・・

WAISの結果出た診断名は広汎性発達障害(PDD)でした。
鬱病は二次障害だったのです。

病院を転々として

その後も、引越しや入院がきっかけとなり、2回ほど転院しました。
その間にアメリカの精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)が新しい基準となり、広汎性発達障害(PDD)は以下の診断名に統合されることとなったのです。

最終的な診断名は・・・

最終的な診断名は自閉スペクトラム症(ASD)でした。
ここでやっと私は、長年の生き辛さの謎がわかってほっとしたような気持ちになりました。
そして、今はその障害と向き合いながら、どう生きて行こうかと模索している最中です。

まとめ/管理人コメント

私が自閉スペクトラム症と診断されるまでの経緯、いかがだったでしょうか。
私は自分が発達障害だとわかるまでに29年間の歳月を要しました。
今は乳幼児検診などで、発達の検査も同時に行われているようです。
これからの発達障害である子供達が、生き辛さとも向き合いながらも、私の時代より幸せに生きることができるように願っております。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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