
目次
冒頭の時事性と想い
戦後80年の黙祷と記事作成の動機
今日で戦後80年。多くの犠牲者に黙祷を捧げます。
そんな折に、戦争世代の話を聞いて記録してみたい。
そんな思いで備忘録として当記事を作成いたしました。
戦争世代と言っても、現在、戦争の話が聞ける身近な人は自分の父方の祖父くらいです。
そんな祖父も昭和7年生まれの御歳93歳。
だんだんと戦争の記憶が風化する中で、私たちの世代がその思いをしっかりと引き継いでいかねはならないと感じております。
ご注意・ご了承の上お読みください。
祖父の記憶
●グラマンと空襲の記憶
祖父が住んでいたのは当時は村で人口も少なく、山ばかりで空襲などは無かったそうです。
しかし隣の市街地にはアメリカ軍の「グラマン」が飛んで行っているのを見たそうです。
※当時の「グラマン」に関しては、戦時歌謡の歌詞などに使われていたという経緯から、アメリカ軍の戦闘機の代名詞のように使われていたようです。
●出兵した祖父の兄と最後の夜
祖父の兄が出兵する日、祖父はちょうど怪我をして入院していたそう。
その怪我を心配し、祖父の兄は一晩中病室に付き添っていたのだそうです。
翌朝出兵。そして、生きて戻ることはありませんでした。
戦病死だったそうです。
広島出身の親友との縁と失われた交流
祖父の兄は亡くなる前に、肩身として腕時計を親友に譲ったそうです。
そのご親友の方は広島出身の方で、戦後になってから祖父が遺族会などで交流があったということでした。
しかし後にそのご親友の方も亡くなり、しばらくはご親友のご遺族と年賀状のやり取りがあったようです。
しかしある年に祖父の実家が災害に遭ったことで、その交流の資料全てを失ってしまいました。
祖父も認知症が進み、今ではご親友のご遺族のお名前や詳しい住所も思い出せないということでした。
後に私がインターネット上で、祖父の兄の名前を頼りに所属していたであろう部隊なども調べてはみましたが、該当するものがなくわからないままとなっております。
もし心当たりのあるご遺族がいらっしゃれば、Xの方でご連絡を...と密かに思っていたりします。
●沖縄からの疎開児との学校生活
祖父の出身は九州地方なので、当時は沖縄から疎開して来ていた人と授業を共にしたことがあるそうです。
このことについても、インターネットで文献を探してみました。
すると周辺の市町村にて、沖縄からの疎開児の記録は見つかったものの、祖父の出身地方に関しての史料は見つかりませんでした。
私自身の記憶
●沖縄修学旅行でのひめゆり部隊の方の証言
学校の修学旅行で、沖縄に縁があり、公演にて元ひめゆり部隊の人の話を聞く機会がありました。
その方の目の前で、ご友人が負傷し、その後亡くなられた話を聞きました。
それはもう、涙ながらにお話しされていました。
まとめ
戦争の記憶を受け継ぐことと平和への祈り
私が受け継いで語れる戦争体験は以上です。
その声を、忘れたくない。風化させたくない。
そう思い、ここに綴りました。
日本での戦争世代の記憶は薄らいでいっているかもしれませんが、まだ世界の中では戦争をしている国があります。
地球上から戦争が消える日を願って。
2025年8月15日